平成27年2月6日に、伝統と格式ある東京地学協会で、筑波山について話をさせていただく機会を与えられました。大変名誉なことであり、日頃、筑波山と関わる者のひとりとして、「お山」の魅力が伝わればと登壇させていただきました。
当日の話の主題は、「筑波山バーチャルジオツアー」と題し、山麓で伝わる春祭りを紹介する形で、山を生命の根源として崇め、暮らしにいかに深く結びついて来たかを話させていただきました。
筑波山の春祭りは、つくば市側として主に以下のものがあります。平成27年の祭礼実施日は( )内に記しました。
- 杉ノ木稲荷神社の初午(はつうま)祭(2月11日)
- 飯名神社の初巳(はつみ)祭(2月22日)
- 蚕影(こかげ)神社の蚕紙(さんし)祭(3月28日)
- 筑波山神社の御座替(おざがわり)祭(4月1日)
話の後、すべての祭礼に参加できたわけではありませんが、いくつかの祭礼に参加できました。2月初旬から4月の初旬にかけて、日差しが少しずつ延びていくと同時に地が開いていく春の喜びに、生命の横溢に期待する祭礼の意味を改めて考えました。 平成27年の祭礼の様子を加えながら、改めて、筑波山にとって春祭りの意味を考えたいと思います。
2月の初めての午(うま)の日に行われる稲荷神社の祭礼、初午祭は筑波山麓でなくとも、全国津々浦々で伝統的に行われて来ました。稲荷信仰は、文字通り「イネ(稲)ナリ(成り)」で、農と深く結びつき、初午祭に詣でて、砂をいただき、それを田や畑に入れると豊年満作になるといわれ、その年の農を営む始まりを告げる祭礼です。
稲荷の祭神は狐稲荷大明神で、獣神ですが、キツネは農の生態系の頂点にあり、キツネが生息できるような環境を維持することで、安定的な営みが続けられる、そのことを体験的に理解し、キツネを神の使い手として象徴的に位置づけたのでしょう。
標高約300mにある筑波山神社境内に、筑波七井という7つの泉がありました。今も湧いている泉のひとつ、「杉の井」は旅館江戸屋の敷地内にあり、たまたま2月に旅館江戸屋を取材で訪れた際、「杉の井」の近くに稲荷神社を見つけました。杉の井はスギの根本から湧いていますが、スギのすぐ近くに小さな稲荷神社が祀られていました。このように泉が湧くスギやケヤキの根本に稲荷神が祀られていることが多く、稲荷のキツネと農との関わりの結びつきを再認識しました。
杉ノ木稲荷神社は、つくば市杉ノ木集落の氏神的存在です。元々は個人の所有でしたが、近年集落全体で祀るようになりました。
稲荷神社の祠(ほこら)は、標高50m程度の小山の山頂にあり、大きな岩の上に鎮座しています。回りに巨岩の露頭がないため、だれかがこんなに大きな石を運び上げたのだろうと疑問に思っていました。その大きさから、機械がなくては運び上げるのはかなり大変なことです。東京地学協会の話の後、何人から杉ノ木稲荷のある山に筑波花崗岩がある可能性をご指摘いただきました。その後、長秋雄氏から「筑波花こう岩と旧筑波町の歴史-筑波花こう岩と人の営み」(GSI地質ニュース 第3巻第6号)をお送りいただき確認したところ、ちょうど杉ノ木稲荷神社の山に花崗岩があることが分かりました。もともとある花崗岩を掘り出し、その上に稲荷神社を祀ったのではと考え直しています。
杉ノ木稲荷神社の初午祭は、早朝、集落の人たちが神社に集まり、大根などの農産物といっしょに、藁(わら)で編んだ「わらづと(藁筒)」に「スミツカレ」を供えます。
「スミツカレ」は、シミツカレ、シモツカレなどとも呼ばれ、栃木県南部から茨城県西南地域につたわる初午祭の伝統食で、節分の時の大豆に大根、人参、油揚げなどを入れた発酵食品です。地域によりサケの頭を入れたりなど素材や作り方も多様です。
杉ノ木稲荷神社は、西側に向いており、その方向に富士山が望めます。実は、筑波山麓には富士浅間神社との関わりのある「浅間」の地名が多いのです。筑波山と富士山との関わりというと、『常陸国風土記』の新嘗祭(にいなめさい)で、富士の神は御祖の神を拒んだのに、筑波山は受け入れたので、筑波山は四季折々色々な花が咲き、ひとびとに親しまれるという記述を思い浮かべます。それは、ともかく、筑波山麓に富士に関わる地名が数多く残るということから、山のネットワークが広がりを感じることができます。
飯名神社の初巳(はつみ)祭は、旧暦正月後の初めての己の日に行われます。平成27年の旧暦正月は2月19日で、初巳は22日。ちょうど日曜日でした。
近年の祭礼は、観光目的で、土日に開催日をずらすところが多いのですが、山麓の祭礼は暦で決められた日で行うものが多いのが特徴です。太陽や月の営みを感じ、四季の訪れを言祝ぎ、そこに吉凶の予兆を看ることが祭礼の意味だとすると、見方を変えれば、祭はジオ(地球)の力を五感で受け止めることと解釈することもできます。365日の日々のなかで、たまに神の時間にひとが合わせるのも、ジオの力を感じる上で大切であると常々考えています。ただ、今年の初巳祭はたまたま日曜日ということで、多くの参拝客で賑わいました。
飯名神社は、江戸期などの古文書に「伊奈野社(いなのやしろ)」と記され、イネとの結びつきが強いことが分かります。飯名神社は、8世紀の『常陸国風土記』の信太郡に記述が見られます。現在の茨城県龍ヶ崎市八代の地から、遠く筑波山を遙拝する場所に筑波山に鎮座する飯名の社の分社が祀られているというものです。現在、飯名神社は、地元で「いなのの弁天さん」と呼ばれ、弁財天を祀っています。その御神体は、巨大な岩で、おそらく斑れい岩の転石と思われます。御神体は、本殿の背後にあり、本殿とは別に小さな祠が岩の上に祀られています。
飯名神社の初巳祭は、日の出から日の入りまでで、とくに時間は決められていません。朝早くから遠方から参拝客がやって来ます。神社やそこに到る道沿いは、普段は集落のひと以外に人気のない場所ですが、祭礼の時は、飯名神社のある集落の道沿いに、露店が立ち並び、多くの参拝客で賑わいます。
露店は、香具師(やし)が営む鯛焼き、焼きそば、大判焼きなどとは別に、ここならではの業態の露店が出ます。たとえば、霞ヶ浦のカワエビ、笊(ざる)や背負子などの竹細工、鎌やイタチ罠などの農鍛冶、苗木屋などです。春先にこれから必要な農機具や苗を販売するのですが、注目すべきは、海水産物です。今年も霞ヶ浦のカワエビを売る露店商が来ていました。数年前は、大洗の魚介類を商う方の店も出ていました。
霞ヶ浦のカワエビは、北浦などで捕れるものだそうで、淡水産の小エビで量が少なく、市場には出回らず、ここでしか買えません。小さいのに香りがとてもよく、出汁も取れるので重宝です。とくにかき揚げに入れるととても美味です。祭礼での露店ということで気前もよく、3パックも買うと、その倍くらいのおまけをしてもらえます。
「山当ての山」に代表されるように、航海をする時に、海から見える山は大切な目印で、灯台の代わりでした。かつて、冬の夕暮れに筑波山を北浦から見たことがありますが、水平線に突き出した二つの三角形の山容は、頼もしく、早く帰ってこいと母から呼び掛けられているようでした。山と海との深い結び付きは、地理的な関係に留まらず、ひととひとの交流による情報の流通など多岐にわたるものだったのでしょう。遠くの地で今何が起きているか、何が流行しているのかなどの情報もいっしょに運んで来たはずです。地域の拠点となる「お山」はネットワークのセンター、拠点にもなっていたのだと思います。
参道から、飯名神社境内に入るとだるまを並べた露店が立ち並んでいます。商売繁盛祈願で、訪れる方も多く、古くなっただるまを奉納する場が拝殿の脇に設けられています。また、御種銭といって、最初は5円から始まる御種銭を翌年に倍の10円にして返すという変わった御守りがあります。弁財天なので、商いの信仰を意識したものです。
もともと農の信仰(イナノ)から、弁財天の商の信仰への転換点がどこだったのか、たいへん興味深く、また文献資料がないなかで悩ましい問題ですが、ひとつ手がかりを上げると「ミロク信仰」があります。民俗学者の宮田登氏が光を当てた「ミロク信仰」のモデルで考えると、飯名神社の初巳祭は、まさにミ=己であり、そこに光を見出すことができそうです。宮田登氏の『ミロク信仰の研究』によれば、飯名神社の弁財天を祀る今の形は、宮城県の金華山のミロク信仰がかなり重なります。ただ、あくまでも共通点があるだけで、飯名神社の初巳祭については、様々な信仰を受け入れてきたその経過についてまったく分かっていません。おそらく、筑波山が神域として山中は立ち入ることができない時代、その遙拝所として巨岩を祀っていた時代、つまり文字が登場する以前の「前古代」の風習を連綿と受け継ぎ、多くの変遷の後、今に至っていると思われます。
歴史の正しさはとかく文字史料を中心に議論されます。いってみれば文字に書かれたことがらですが、それ以前に連綿と続いてきた祭礼が「お山」の麓で、行われてきた祭礼が形を変えながらも「いま」に受け継がれてきたという事実に主な視点を置くべきだと思います。はるか昔から受け継がれ「いま」そこで何を感じるか。おそらく先祖が春先の淡い光を受け、巨岩から受けていたインスピレーションと「いま」私たちが受ける感じが同じものであると意識したその瞬間において、時間を超えて、ジオ(地球)と同調することができるのだと思います。
蚕影(こかげ)神社は、年2回の祭礼が例祭に位置づけられています。3月28日の養蚕の始まりに豊作を祈願する蚕紙祭と、10月に採れた繭への感謝を捧げる奉納祭です(神社の由緒書に春は蚕糸祭とありますが、その年の養蚕を始めるにあたり蚕の卵を付けた「蚕紙」をいただく時期の豊作祈願が元々と思われるので、ここでは蚕紙と表記します)。
養蚕が盛んだった明治から大正、昭和前期にかけて、関東一帯から広く信仰を集めて来ました。たとえば昭和15(1940)年に奉納額を飾る額殿新築寄付者の石碑には茨城県内のほとんどの村落はもちろん、埼玉県、栃木県、埼玉県をはじめ、東京府、群馬県、長野県、山梨県、そして遠くは岩手県まで養蚕で知られる地域の名前が見られます。
昭和50年代を最後に、養蚕業の衰退とともに、蚕影神社の祭礼は地元の氏子が中心となり細々と行われているのが現状です。それでもここ数年は、農の営みのなかで、衣食住の衣を担ってきた役割を見直そうと、つくば市の女性グループが山麓で綿の栽培から綿を収穫し、ちゃんちゃんこなどを作る活動を始め、その一環で養蚕にも挑戦するなど産業とは別の角度から歴史の見直しが始まっています。この活動と前後して、「日本一社」として信仰を集めた蚕影神社を見直そうと地元氏子が神社境内地の清掃や木々の剪定を始めるなど再評価が始まっています。
蚕影神社の見直しの手がかりのひとつが、縁起の「金色姫伝説」です。遠く天竺、つまり今のインドからうつぼ船にのって筑波山麓に流れ付いた姫が、山麓に住む権太夫とその妻に育てらたものの、死んでしまう。その亡骸を遺言にしたがって櫃(ひつ)に入れたところ、蚕になり、養蚕が始まったというものです。伝説は、仏教説話として語られたようで、蚕影神社の麓にあった神宮寺、桑林寺との関わりが考えられます。桑林寺は明治維新の廃仏毀釈で廃寺となりますが、養蚕が広まり出した江戸期に作られた仏教説話というのが大方の見方のようです。
悲哀に満ちた金色姫の物語を紙芝居にし、地域で広める活動を行い、少しずつ蚕影神社の掘り起こしが始まりました。その歴史の系譜については、やはり文字資料が少なく、不明な点が多いのですが、ひとつ注目されるのは、神社本殿への石段の脇にある「虫切り石」と呼ばれる石です。直径1m弱の石は、表面が多数くぼんでいます。神社の麓で茶店を営んでいる主人の話では、「虫封じのために詣でたひとが、石をたたいてその粉を持ち帰った」とのこと。石の石質が何かが分かりませんでしたが、話の後に泥岩の変成岩ではとの教示をいただきました。
養蚕がもたらされる以前の絹糸がどのように作られてういたのかは、明らかになっていません。ただ野蚕が用いられていたと考えられます。野蚕は、自然に生息するヤママユガやカイコガなどの蚕で、クヌギなどの広葉落葉樹や、タチバナなどの広葉常緑樹(照葉樹)に生息します。人工的に蚕を飼育する以前の古いタイプの絹糸を採るやり方で、群馬県で野蚕を復活させている方がいます。古代に常陸国の絁(あしぎぬ)が朝廷に献上され、正倉院に遺っています。野蚕で採れた絹糸の織物があしぎぬかどうかは不明ですが、常陸国で古くから織物が織られ、それが献上品となるくらいのレベルであったことは歴史上の事実です。養蚕が日本にもたらされた経緯については、シルクロードで中国からヨーロッパに渡ったように、日本にも朝鮮半島を経由して渡って来たと考えるのが自然でしょう。そのひとつの手がかりが、大陸から渡ってきた渡来人の秦氏に求められます。
秦氏の伝説として『日本書紀』は、以下のような話を伝えています。
“富士川のほとりで、大生部(おおべ)の多(おお)という人物が、常世の神だといって、虫祭りを広めた。この虫を神として祀るものは、冨と長寿を授かると。ひとびとは、財宝を寄進したりして、熱狂的に酒を飲み、踊り狂ったりした。民衆が惑わされているといって、秦川勝(はたのかわかつ)が大生の多を打ち、祭りをやめさせた。ちなみに、虫はタチバナの木、あるいはホソキ(山椒)に付き、大きさは親指ほどで、緑色に黒い斑点がある。その顔かたちは蚕に似ている。”
大生(おお)氏は全国に地名として氏族の存在を伝えていますが、茨城県では、潮来市に大生古墳群があり、埋葬品として鉄器が出土するなど力の大きさを示しています。さらに興味深いことに、『常陸国風土記』は、行方郡の郡衙に大きなタチバナの木があったことを記しています。タチバナに関する記述は『常陸国風土記』に数多く登場。そして、筑波山麓では「福来(ふくれ)みかん」というタチバナの一種が家々に古くから植えられています。以上を考え合わせると、筑波山麓に蚕にかかわる神社があること、常世の虫に関係ありそうな虫切り石があること、家々に野蚕に関係しそうなタチバナが今も植えられていること、そこが絹織物(あしぎぬ)の産地であったことなど、アリバイのひとつひとつがつながってきます。まあ、いずれも個人の勝手な想像ですが……。
筑波山神社が一年を通して重要と位置づける祭礼に、御座替(おざがわり)祭があります。11月1日と4月1日の秋と春の2回行われます。 筑波山神社の御座替祭は、中腹の拝殿から山頂の男体山と女体山の本殿に向かう神御衣(かんみそ)祭。拝殿で行われる奉幣(ほうべい)祭。山麓の一の鳥居、通称、六丁目の鳥居から拝殿まで行われる神幸(しんこう)祭から成っています。早朝から始まる神御衣祭は、小さな神輿に新しい布を収めて、男体山の本殿、女体山の本殿で、新しい布と古い布を交換し、古い布を入れた神輿を6つの末社を巡りながら、山麓に下りてきます。山頂で神輿が行く頃、中腹の拝殿では、神社本丁からの遣いを迎え、春は嬥歌(かがい)の舞、秋は浦安の舞が奉納されます。そして、古い布を入れた小さな神輿は、山麓の一の鳥居まで下りてきて、そこで大きな神輿に布を入れ替えます。午後2時半過ぎ、一の鳥居で祝詞が奏上され、神社拝殿まで、猿田彦を先頭に、雅楽を奏でながら神幸祭の神輿渡御が行われます。
筑波山麓の人たちにとって、御座替祭といえば、一の鳥居からの神幸祭の神輿渡御で、衣冠装束を身にまとった行列は、春と秋のそれぞれの季節の到来を告げる行事として親しんできました。急なつくば道を絢爛とした装束を身につけた行列は、歴史絵巻を見るようで、筑波山が連綿と受け継いできた歴史の証のようでもあります。
現在、筑波山神社で行っている御座替祭は、明治41(1908)年に廃社になるまでは山麓の六所神社で行っていました。
意外と知られていないのですが、筑波山は8世紀に徳一が山岳仏教を広めて以降、神と仏が共存する「お山」でした。いわゆる神仏混淆で、仏教寺院として筑波山中禅寺がありました。中禅寺は、中世の頃は常陸国守護の小田氏の家系が住職を務め、江戸時代は江戸から見て鬼門にあたることから徳川幕府が鬼門封じのために庇護。とくに3代将軍、家光が数多くの堂宇伽藍(どううがらん)を寄進。残念ながら明治維新の廃仏毀釈で、多く仏教系の文化財が破壊されましたが、神橋をはじめその多くが今も見ることができます。ちなみに、御座替祭の神幸祭の神輿は、神橋を渡ります。一般参拝客が神橋が渡れるのは御座替祭の2回のみということで、貴重な機会となっています。
六所神社で行われていた御座替祭がどのようなものであったのか、数少ない文書と地元に語り継がれている話を総合すると期間も人手もかけた壮大なものであったことがうかがえます。とくに春は御座替祭が終わった後、1週間かけて御田植祭が行われたとのことです。
御田植祭については、牛頭(ごず)面が遺されています。祭は、飾り立てられた神馬が堂の回りを七回回った後に、神田で神馬に鍬を曳かせる神事が行われたようで、その苗をいただくと豊年満作とのことで、遠方からの参詣客で参道は身動きができないくらいだったと伝えられています。
六所神社には、筑波男神、筑波女神の2つの本殿があり、祭神として天照大神など6柱を祀ったとされます。神社の背後に「宮山」「お宝山」という二つの峰があり、まさに筑波山の相似形がそこにあります。興味深いことは、宮山とお宝山の間から流れる沢を地元の人は、「小鈴川」と呼んでいることで、伊勢神宮との関係も見えてきます。
平成27年4月1日の御座替祭は、「ブラタクジ」と称した企画が立てられ、あろうことか案内人に仕立てられました。少しでも多くの方に、御座替祭を知ってもらえればと引き受けたのですが、桜の花が咲き始めたなかで、春迎えの祭のトリとして御座替祭の意義を再認識しました。祭が済むと田に水が入り、そこに逆さに映る筑波山が出現。やがてホトトギスが鳴き渡る初夏まで、里の人たちにとっては忙しい日々が始まります。
東京地学協会で紹介した春祭りは、あくまでもつくば市側の数例です。実際は、筑波山周辺の各市で、祭礼が数多く遺されています。
既に書きましたが、筑波山は文書などの文字史料が少なく、歴史の評価はまだまだ不十分です。そして、文書などに頼っている限り、連綿と続いてきた歴史の真の姿にたどりつくことは不可能に近いと思います。まずは、祭礼をはじめ、筑波山と真向かい、その景観を含め、四季折々の音や匂い、空気を「ひとりひとりの感性で受け止めること」が大切だと思っています。なぜならお山と真向かうことが、前古代からひとびとがやってきたやり方で、人に親しい筑波山だからこそのやり方です。
ともすると、モデルコースを仕立てて、一から十までお膳立てして、マニュアル通りのガイドツアーが、ジオツアーと思われがちで、ある場所では有効であるのかも知れませんが、一見して穏やかな筑波山の場合は、モデルコースのみでは魅力が十分に伝えづらいのです。モデルコースを仕立てた段階で、何かがぽろりとこぼれてしまいます。言ってみれば、ある瞬間に見せる筑波山の表情が、「お山」として崇められてきた筑波山の魅力で、それを感じ留められるかどうかがジオの魅力が分かるかどうかです。ひとりひとりが感性で受け止めるというやり方は、なんだかとてもまどろこしいように見えますが、人に親しい山としてあり続けた筑波山とはなにかを理解するための一番早いやり方だと考えます。ひとりひとりの受け止めた筑波山の魅力をひとつずつ積み重ね、それをネットワークで共有化することが筑波山地域ジオパークの魅力につながっていくのではないでしょうか。
ジオパークにとって地質や地形の価値は必要不可欠ですが、残念ながら筑波山はどちらにおいてもダイナミックな要素に欠けます。地学協会では「筑波山は活火山でないし」、と話したのですが、後で山頂の斑れい岩に刻まれた節理は、地下深くで生じたマグマのダイナミックな動きを物語っているはずだ、との指摘をいただきました。確かにそうです。おそらく、地球の力のダイナミックな動きを筑波山麓で暮らす人たち、あるいは筑波山に入って修業してきた人たちは、感性で受け止めてきたのでしょう。平たく言えば、「パワースポット」なのでしょうが、そんな軽いことばでなく、ジオの力の源泉を暮らしに活かし、四季折々に受け止めたのが祭ではなかったか。であれば、まだまだあまり知られていない、未評価の祭をジオの観点から見直すことが、筑波山地域のジオパークの大きな推進力になるのではないでしょうか。
末筆ながら、まとまらない話をお聞きいただいた方々、そして貴重な場を与えてくださった加藤碵一氏はじめ、関係者の皆様にお礼申し上げます。
※上記、筑波山に関する資料として、弊社刊行『筑波山目的別ガイド』をご参照ください。